昭和46年10月23日 月例祭

                 ※途中から

「青葉の輝きて、降れば青葉のいそいそと、躍る心を抱きしめて、嬉し涙にくれておる」と、ね、照れば照るで、心の中は輝き渡っており、降れば降るで心はむしろ生き生きといそいそとして、その降っておることに対して、え~喜びを感じておる、もうそれこそ躍動しておる心、そういう私は、いわゆる嬉し涙にくれておれれるほどしのおかげが頂けれる、そういう生活をね、お互いが目指さしてもらう。
 夕方、足が少し痛みましたから、あぁ愛子に足を揉ませて、えぇおりましたら、もうごきとっ、この前の御大祭でもう、お供え物の溢れるほどにあったが片付いてしもうて、片付けてたが、今日はまたあそこで、どっぷりお供えが集まってから、久富先生が、あぁそのどれからお供えすりゃ分からんごとしてしよんなさるって、家内が、えぇ、これも(?)下がりましたら、今日はまた家神饌室は山芋だらけっち、もう長い大きなこう筒に巻いた山芋かと思うと、こんな大きなひげもじゃもじゃ、こんな大きな山芋を、短いとも、あっちこっちから山芋が沢山お供えがあっておる、その「山芋づくしのごたるですよ」っち言うちから、家内が言いますけん、ちょっと見てみたらなるほど山芋がいっぱいお供えしてありました、ね、18日の月次祭、そして19日の前夜祭、そして20日のあのような、それこそ輝かしいまでの御大祭を拝ませて頂いた、そして(?)23日の月次祭には、もう何かこうもうお終いじゃろう、もうお終いじゃろうというような感じだけれども、ますますそれどころではない、もう尽きることがない、限りない。
 今日私、夕食をさして頂きますちょっと前に、それこそまあ、あぁ言うたことないばってんか、鯖んごたる大きな鮎を頂きました、もう私はあんな鮎は始めて見ました、こりゃもう私一人で食べるちはえすかっち私は言いました、(笑)、っこうしとるですからね、でもう私は、あぁもう本当に、あのだいたいは他の魚食べきりませんけれども鮎は好きです、ですから半分やっと食べました、もうほんなこてですね私はもう一人で食べるとはえすかけん誰かこんじゃろうかっち言うちから、(笑)言うてその、おぉ、頂きました、それを一人でですからね、(?)は、松茸のおすいものがあり、まあ他に色々、もうそれこそ三界の珍味を前にさして頂いてです、それこそありっ、有り難涙にそれこそくれておる、嬉し涙にくれておる、それだから嬉し涙にくれておるというのであったら、誰でも当たり前ですよね、けれども私の場合は「照れば青葉の輝きて、降れば青葉のいそいそと」というところを辿らせて頂いての、それであるということなのであります、ね、お互い本当にね、そういうおかげの頂けれる道なのですから、ね。
 今日前講を久富先生が、勤めておりました、ね、「親先生がいつも言われるこの世の極楽のおかげを頂かなければならんと、ね、また頂けれるんだと親先生自身が身を持って、頂いておる、そしてそれを、それを、私共に言うて下さるのであるから」と言うておられました、(お茶を飲まれる)、ね、その、親先生が、この世極楽と言うておられる、この世極楽のおかげを頂くということ、ね、いわゆるまあ食べ物で言うなら、三界の、おぉ、珍味がどこからどのようにして集まってくるか分からんほどし、ね、例えばうんなら、今日の月次祭に、もう果物なら果物でも、もうとにかく大きな箱が来るのですからね、とてもなら、お三方などにはお供えは出来はしません、でそれの一つ一つを思ってみると、やはりここでおかげを頂いておるからです、もうない命、あれはもう難しかじゃなかじゃろかと言うような病人がですね、お取次を頂いて助かっておるです、ね、もう本当に今度と言う今度は、もう金銭のお繰り合わせはもう、もうそげんな、神様(でっちゃあきんなさるな?)というのがです、おかげを頂いて大祭の日に、ね、もうそれこそ放からかして帰っとったら家ではちゃんと出けておったっち言う、それでもうそん、どうかしなきゃおられんのが、言うならば今日のまた月次祭なんですよ、ね、ですからそういうおかげを受けるということも有り難いですけれども、そういう、ね、おかげの受けられるということ、そういう働きと、力を持ってござる神様の心を心として、今朝からの御理解のように、ね、今まではどこへ参っても方便の願い捨てであったろうがと、ね、ここへ参ってきて、ね、神が物を言うて聞かすというところは今までかつて、聞いたこともなかった、今までは例えば、苦しけりゃ苦しいと、願って願い捨てて帰らなきゃならなかったけれど、ね、そのご返事を頂いて帰れるということ、ね、それを頂かずしてはです、今日の御理解の最後のところの、ね、此方が祈るところ天地金乃神と一心なりというようなおかげにならない、天地金乃神と一心、天地金乃神様の持っておられる、ね、全ての言わば人間の幸せの、全てをです、天地の親神様のお心次第で頂けれるというのであるから、それを頂き止めるには、方便の願い捨てではなくて、それを願ったらまたそれを頂いて帰るというところに、お道の信心があるのだ、だからこのような極楽なおかげの道も開けてくるのだ、けれどもならそういう有り難い教えを頂きそういう有り難い道におらせて頂きながらです、ね、はたして私共は神様の言う事を聞いて帰っておるだろうか、聞いてはおるけれどもそれを行っ、実行の上に現しておるであろうか、(お茶を飲まれる)、ね、そこんところがです、神様との交流、神っ、私共の言うとたことを神様が聞いて下さり、また神様のおっしゃることを私共が聞かせてもらうというところから交流が始まる、その交流の道を私共は、ね、まあ言うならば、極楽の道と、そういう道の、そういうルートを辿って、流れてくるところの限りのないおかげというのである、ね、(?)この世極楽と言う、その極楽をこの世で、親先生自身が頂いておられて、そしてこういう風にすれば、お互いの上にも極楽の道が開けるのぞという、ことを今日は、あぁ繰り返し話しておられました、そしたら私そこへ座らして頂いておったら、「清土」ということを頂いた、いわゆる極楽清土と言うでしょ、清土と言うと清まった土と書いてある、ね、なるほどね、極楽極楽と言うけれども、さあ極楽の道に出るためにはね、まず清土というところを自分のものにしなければならない、清土というのは、ね、(さんまんごくど?)と言うて、もうどれだけ、ね、遠いか分からないほどしの向こうに、清土があるのではなくて、その清土というのは、自分自身の心の中にあるのだ、自分自身の心の中に頂くのだ、天地日月の心になること肝要だ、天は与えて与えて止まないもの、地はそれを受けて受けて受けぬいていくもの、その受けて受けて受けぬいて行くその、大地も、ね、それが清土でなからなければならない、清めた上にも清められた心でなからなければならない、そこに始めて極楽清土の道が開かれるのだと、私は先ほどそこを気づかしてもらった、ね、極楽の道極楽の道と言うけれども、その極楽の道を頂かせて頂くためにまず私共の心ん中の心がね、清まり、ね、心、それは土なんだ、大地、大地の心、その清土を持って、受けて受けて受けぬいて行くというところの信心が出けるから、極楽清土の道が自ずと開けてくる、ね。
 照れば青葉の輝きて、降れば青葉のいそいそと、躍る心を抱きしめて、嬉し涙にくれておるという生活を、させて頂きたい、(?)のは嫌だ、自分の都合の良い事だけが有り難いというのではなくて、ね、降ることもまた照ることもまた有り難いのだと、いや有り難いのでっ、それこそ輝かなければならない、それをいそいそとして受けて行かなければならない、ね、そういう言わば心の輝くほどしの、心(?)な場合でも、ね、むしろ叩かれて元気が出るほどしのいそいそとした心というようなもののです、頂けれる道を教祖は熱や私共に解き明かして下さるのであります、ね、なるほど人が助かる、有り難い、ね、人が助かることさえ出来ればと。
 今日も日田のある(?)屋さんが丁度四時の御祈念終わっとったら、夫婦で参ってみえた、(お茶を飲まれる)、大売り出しをするっち言うので、ね、ね、それで私は申しました、「どういう、考えの、(?)に、あなた方がお参りになったかどうかは知らんけれど、日々、日々私共は、ね、もう人が助かることさえ出来れば良いと思うてここへ座らせて頂いておった、そこで商売人のあなた方も、人が喜んで下されば良いという商売をさしてもらいなさい、ね、ただ売らんからのために大安売り、大売り出しではいけません、人に本当にその心から、お客さんが喜んで下さることのために、商売をさせて頂くなら、ね、その喜びが返ってくる、それが繁盛の元になる、安いから繁盛するだけのことではいけません」と言うてまあ色々お話さしてもらった、ね、「それが今あなたが御理解を頂かれたところの、ね、あなた方の願いを、神様にお取次さしてもらって、そして神様の願いを今あなたにこのようにしてお伝えしておるんだと、だからこれを聞いて頂いて、大売り出しをしたら良いだろうかせんが良かろうかと、いうようことでは、お伺いをするだけならね、もう金光様の、わざわざ、言うなら日田からここまで参ってきなさることはいらんですよ」と言うてお話をしたんです、ね、お互いの心の中に、ね、それこそ、お~、広ければ広く、狭ければ狭く、ね、水の流れるに、不平はあらずということ、ね、その時その時にです、どのような風に流れていかない、それこそ、窮屈なところを通らなければ分からないけれども、ねその、窮屈な、そこんところに不平があらずと、不平もあらずという信心を頂いていかなければ、今日私が言う極楽の道は開けてこないのです、ね。
 限りなく、例えば只今申しますように、それこそ三界の珍味を日々頂かせて頂けるほどしのおかげを頂いて、なるほど嬉し涙に、に、くれるほどしである、けれども、ね、一碗のやはりお粥が頂きかえた時代も、やはり有り難涙にくれておったということなんです、そこのところをね、辿らして下さる、そこのところ頂かせて頂けれる信心。
 私共の心の中に、仏教で言うところの極楽清土と言うのは、意味が違うでしょう、けれどもごりっ、私が今日御理解に頂く、だから仏教で言う極楽というのと私が言う極楽はまた違いますはね、お道の信心で言う、ただ極楽というのは、ね、え~、もうそれこそ、おぉ、おぉ三界の珍味と言うか、もう自由自在のことが出来る、自分の思うようなことが出来るというような世界のことをまあ言うわけでしょう、いわゆるパラダイスです、ね、けれども私の言う極楽は、そうではないですね、只今申しますように、降れば降る、照れば照るで、そこに有り難いというものを感じさせて頂くという心が極楽だと言っておる、そのために私共は心がいよいよ清めらさしていっ、清まった心、清まった心を清土と今日は私は頂いておる、清土というのは、だから、遠い億万、ん、ん、でも離れたような、三万奥戸の向こうにあるのではなくて、私の心に清土をまず作らなければならない、清い心、清い土を作らなければいけない、ね、そういう私は修行をさして頂くことを楽しみに教えを頂き、修行さして頂き、お参りをさして頂くということにならなければ、信心に、楽しみが生まれてこない、ね。
 先程から、え~、ね、もう(?)に、お祭お祭お祭できとるけれども、今日のお祭を皆さんもそうだろうと思うけれども、何か、もう御大祭やらもう、もう、もうま~えにあったような気がする、こりゃもう昨日仕えた、一昨日仕えたっちいう感じがさらさらない、これは私共の心がやはり生き生きと新な心であるからだと思います、ね、もう昨日一昨日あげなお祭を拝んどるけん、もう御月次祭ぐらい拝まんでんっちいうものではない、信心というのは、ね、そういうところに、私は、あぁお道の信心の、いわゆる、う~、天地が生きてござる、ね、天も地も昔から死んだことなし、此方が祈るところ、天地金乃神と一心なりという信心に段々近付かせて頂く。
 今日のお供えの中に家内が申しますにも、「ちょい親先生、もう山芋ばっかりですよ」っち言うぐらいに家内の目には写ったらしい、様々な山芋が、でそこから、また私共は感じさしてもらうのです、山芋と言やぁいよいよ、元気な心で修行さして頂けといういつもみ教えなんです、ね、やれやれではない、ねそういう極楽の中におるけんもう、安気安満で寝たり(?)出しとって良いということは決してない、その山芋のような修行を繰り返、また目指しておかげを頂かしてもらうという、心が私共の心の中にある限りね、え~、今日、私は、今日じゃない昨日でしたか、昨日、え~、それこそ一ヶ月ぐらいに、あの両親の部屋に入りました、もう暇もないです本当に、また久しぶりでやらして頂いてから、まあ大祭の有難かったこと、まあまたは、あぁこの、子供の結婚式のこつやらは、色んっ、とありますから、もうそりゃもうとても私どんが、えぇどうこうしようああしようで出来るこっちゃなかって、御大祭でん、今度の結婚式でんそうって、してもうそりゃもう本当に、私どんが、あぁ、あ~、人間の知恵ちかれどん出来ることなかから、もう神様にもうゆだね任せて頂いてのおかげを頂かなきゃならん、今日はね、私は御広前へ出、その事をお礼申させて頂きよったら、んん、ずーっと、あのこの辺一体が、一体がね、そのぉ合楽教会関係になっておるようなお知らせを頂いた、だからま~だま~だどういう、ま~だ、勿体無いごたるこのおかげと言うばってん、ま~だま~だ神様がおかげを下さろうとする、しておられることはもっと大変なものだから、「まあ、一時でも、長生きさせて頂いて、それを見届けて行かにゃこてあんた団死なれんばい」と言うてから両親に話たことでございました、ね、そういうような、例えば神様の願いを私の願いとさせて頂くのですから、これだけのことが出けたからと言うて、慢心の出ようがない、ま~だこんくらいなこつと思うとる、(?)も申しますように、それこそ嬉し涙にくれるほどしのおかげを頂いておるけれども、それでもまぁだこれはこのくらいのことなんだ、神様が下さろうとするおかげは限りがない、ですからそういうおかげを目指さして頂いておるから、まぁだいつも、いわゆる、今中である、まぁだ今は中、中場である、ですから、今は、勿論山芋のような修行を求められてもです、ね、それを元気のつく元にして行かなければならないということが分かります。
 どうぞ一つ今日は、ね、極楽に行けれる道なのですけれども、それにはまず私共の心が清土と化しなければならない、私共の心が、ね、その修行に本気で取り組まして頂きゃにゃならんと思うのでございます。
                                     どうぞ。


入力者:誠輝